西成の街の変化を日に日に感じます!星野リゾートや中国海外資本など巨額の富が動き、あいりんセンターの建て替えや労働者の高齢化などで変化していく街とどう向き合って行くか?日々考えながら生活しています。」と話す高橋さんは東京で会社員をしていたが、仕事をやめて西成へ移住し3年がたつ。

 

ココルーム:アートNPO・ゲストハウスで働いている 高橋亘さん

 

 

 

 

「高橋さんの話」

「東京で会社員として働いていましたが、この生活や仕事は自分が30代、40代になったとき自分自身の何になるのだろうという疑問や、会社員としてキャリアを積んで行くことに危機感を覚えたのです。今しかできないことをやろうと思い東京を出ました。無意識のうちに意識させられていた価値観から離れて、もっと豊かで自由な考えや視野を持ちたいと思ったのです。そして本当の意味で、さまざまな人の人生や考えにふれ、であい、自分自身も「生きる」ということ考えながら、向き合いたいと思ったんです!

そう思っていた頃に出会ったのが大阪、西成にあるココルーム(NPO法人こえとことばとこころの部屋)でした。さまざまな人々とであい、表現とまなびあいの場づくりをおこなっています。釜ヶ崎の街は1960年代から労働者の街として万博、高度経済成長を支えてきたこの街は高齢化や大きな資本の流入に伴い、あと5年もすれば姿が変わる街とも言われています。そうした街の中で、困難を抱えた人たちとのであいや場づくりは日々実践であり、失敗しながら学んでいくところです。

 

 

 

■西成の対しての偏見や差別について

インターネットやメディアにはかなり西成という街に対してかなり偏った情報が多く出ているように感じます。そして本当のことがなかなか外部の人に届いていないように思います。実際に自分で歩いて感じた感覚を信じてほしいと思います。過去にあった暴動などのイメージが残っていますが、それは過去の話です。しかもその運動は労働者の権利や尊厳を主張する人間として最も大切な声だということを忘れてはいけないと私は考えます。肩に力を入れることなく、ありのままの自分を受け入れてくれる街だと思います。

 

■高橋さんたちの活動

 

「表現の場としてのココルーム」

普段は喫茶店とゲストハウスのふりをしながら、アートNPOが運営しています。事務所として構えるのではなく、喫茶店の「ふり」ですからいろんな人が日々訪れます。ココルームは「学びあいたい人がいれば、そこが大学」という言葉をキーワードに釜ヶ崎芸術大学というアートプロジェクトを行なっています。年間約100講座。「生きることも表現」なのであるとも思える瞬間にであいます。暮らし、仕事、関係性のなかで、正直に生きることをお互いに大切に、そして社会と接続する仕事場として活動しています。そこは生活保護を受けている方や、元労働者、元路上生活者、いろんな過去を抱えた人、旅行者、など多くの人たちがであい学びあえる場所なのです。ひとりひとりがいきいきと生きられる場であればと願います。

僕自身、そこでのであいを文章に記して残したり、最近ではカメラで写真を撮ることに興味が向いています。ひょんなことから手に入れたフィルムの古いカメラで撮影を始めました。忙しく働いていると日々の想いがことばに追いつかず前のめりになる時があります。執筆や写真は一歩立ち止まりそうした日々やこころの動きを見つめなおせるものだと思っています。「写真は真実を写すものじゃなくて、世界のわからないものを見つめたり、残したりできるもの」。ある写真家の方からいただいたことばが僕のこころに残り続けています。

「釜ヶ崎という街との関わり」

釜ヶ崎では毎年年末年始、越冬闘争という活動が行われます。この活動は1970年代から行われており、三角公園での炊き出しやステージでのパフォーマンスなどで盛り上がりを見せます。また地域の野宿者に対して健康状態の確認や毛布、カイロ、おにぎりなどを配る医療パトロール。梅田、難波、天王寺、日本橋、までいき地域住民、旅行客に対して越冬闘争の意義やその場で行われたホームレス殺害・暴行事件について理解を求めるデモ活動もします。また臨時宿泊施設を利用しない人に対して旧あいりんセンター軒下で布団を用意し集団野営とそれの夜間警備を行います。

そんな中1月1日(2018年)、私は新年をココルームで迎え、家に帰ろうと道を歩いているとひとりの男性が横たわっていました。飲み屋の多い商店街なので酔っ払いが寝ているのを見るのは日常茶飯事なのであまり気にかけようとしませんでしたが、ふと見ると路上生活をするにはあまりに軽装で荷物も持たず、かなり高齢の男性で心配になり声をかけました。すると87歳の男性で足を怪我して歩けなくなっていました。私は集団野営をしているのもわかっていたので、そちらのチームと連絡をとりひとまずその男性をリヤカーにのせ、あいりんセンターまで運びました。おそらく生活保護を受給されているのだと思いますが、だいぶ衰弱していたので、救急車で搬送をすることになりました。もしあの男性に声をかけなかったら、越冬闘争をしていなかったらと考えると、この街の支援の手厚さを感じます。今のこの街の現状や声を聞きたくて、夢中で活動しています。

野宿者に対して健康状態の確認や毛布、カイロ、おにぎりなどを配る医療パトロール(写真)野宿者に対して健康状態の確認や毛布、カイロ、おにぎりなどを配る医療パトロール(写真)

 

 

2019年春、「大阪の真ん中に、井戸を掘る!」というプロジェクトをココルーム 

釜ケ崎芸術大学で行った。代表の上田假奈代の古くからのご友人でアフガニスタンのペシャワール会で水源確保事業のプロジェクトリーダーを務めていた蓮岡修さんが「日本で、アフガンでやっていた井戸掘りの話をしたことがなかった」という一言から、上田はピンときたそうだ。釜ヶ崎のまちには日本のダム建設やビル、高速道路の建設など様々な現場で培ってきた経験や知識を持っている労働者だった方たちがたくさんいる。そのアフガンでの井戸掘りの物語と知恵と釜ヶ崎の技術で、普段当たり前のように蛇口をひねれば水が出る生活を見直し、私たち自身で生きるための井戸を掘ってみようというプロジェクトが始まった。その井戸掘りプロジェクトの中には、ただ井戸を掘る作業的なものだけではなく、大地に穴を開けることの罪深さを蓮岡さんは語って下さった。僕たちは日々生きていく上で、専門家に任せきりになっている世の中を考え直し、自分たちの命というものへ向き合うプロジェクトであったと僕は思う。

4月からココルームの庭で始まった井戸掘りプロジェクトには述べ600人以上の方が参加してくださった。最年少は3歳から上は70代の元労働者の釜ヶ崎のおっちゃんだった。

穴を掘るという作業は不思議なまでに人を魅了し、夢中にさせてくれるものだった。夏休みに井戸掘りを手伝ってくれた小学生は最初、穴が深く恐怖でなかなか下に降りることができなかった。なんとか下におり、井戸掘りを体験し、次の日、驚くことにお友達を連れてまた井戸掘りに来てくれた。今度は全然平気だったようで、もっと掘りたい!と。そこでも掘りかたや作業の指導をしてくれたのは釜ヶ崎のおじさんたちだった。釜ヶ崎では彼らのことは普段「おっちゃん」などと呼ばれることが多いが、その子どもたちは「先生」と呼び始めた。これはちょっと驚きで、素直に尊敬できる人や指導してくれる人を「先生」と呼ぶ子どもたちの姿があった。こうしたであいは井戸掘りプロジェクトがあったからこそであり、これこそがココルームの目指すであいと表現の場であったと思う。

半年かけ10月に井戸は完成し。穴の深さは最終的には4.5メートルになり、無事に水も出たが、水質検査では残念ながら飲料水としては不適合だった。しかし井戸を掘っておしまいではなく、今後釜ヶ崎芸術大学の活動などでも活用していく予定である。

先日ペシャワール会の中村哲さんがなくなった事件には本当にショックを受けた。彼がいなかったら釜ヶ崎で井戸を掘ることなかったのだなと改めて痛感している。そしてここにある井戸がアフガニスタンと釜ヶ崎をつなぐものなのだと。僕にとっても2019年の夏は忘れられない夏になった。

 

 

 

 

★ココルーム:http://cocoroom.org/cocoroom/jp/guesthouse.html

★釜ヶ崎芸術大学の日々はNHK ETV特集「ドヤ街と詩人とおっちゃんたち」で紹介されました