斎藤とく子さん

 

小学生の頃から運動神経がよく、女の子ながら相撲遊びが大好きで、雪山で男の子と相撲をしてはやっつけていた。人に負けるのが大嫌いで1位をとらないと気が済まない性格。中学生の頃は足が速く、学校代表で東京オリンピックの聖火ランナーの後ろを走る 補助ランナーを務めた。

20歳

就職求人雑誌「an」をぺらぺらめくりながら、東京・新宿の住み込みレストランの求人募集の記事を見つける。「これだ!」と思い、何も考えずに東京へ向かった。新宿のレストランで住み込みで働くようになったある日、お店のお客さんから「キックボクシングやってみないか?」と誘われる。当時、通称『キックの鬼』・キックボクサーの沢村忠が大人気の時期。声をかけたのは、当時、女性のキックボクシング団体を立ち上げようとていた南さん(今も格闘闘技界でご健在でいる)という方だった。ちょうど、体を鍛えたくて鍛えたくてしょうがない時期だったので、南さんの誘いを受けることにした。それからは毎日キックボクシングの練習に励むように。練習を始めて3か月くらい経った時、当時、テレビ朝日で夜11時から放送されていた、深夜のワイドショー「スタジオ23」という番組から出演オフォーが来た。(1974年に放送)

オファー内容は、「女子キックボクシングを生でスタジオで試合してほしい!」というものだったが、企画としては「女性同士が水着戦う、深夜のお色気を狙ったセクシー企画」だった。出演する事になったとく子さんは、お色気どころかものすごい勢いで相手をぼっこぼっこにした。それが、女子キックボクシングの存在が日本で一挙に広まった瞬間だった。周囲も「とく子さんならやれる!女子キックボクシングの団体を立ち上げよう!とく子さんをスター選手にしていこう!と騒ぎ立て、女子キックボクシングの団体が作られるようになった。

テレビ出演後も練習の日々。当時、女性でキックボクシングをやっている人はいなかったので、練習相手は男ばかりだった。

その後、キックボクシングの興行で日本全国を回ることになり、日本人女子選手12名、タイ女子選手7名で、合宿しながら移動をしていた。ちなみに、とく子さんのリングネームは「ジャンボかおる」。

21歳

タイに遠征。しかし、タイではとく子さんのキックボクシングは通用しなかった。タイでは、相手の首を掴み体制を崩す事で次の攻撃につなげる「首相撲」というテクニックを使っていた。タイでは町のあらゆるとことでキックボクシングをやっていたので、研究材料は山ほどあった。タイの選手にどうしたら勝てるのか?とく子さんは試合を見まくり、タイでの戦い方を研究していった。そんな努力もあって、その後、とく子さんは試合で勝ちまくり、タイでの成績は10戦9勝。ほぼ無敵だった。当時、タイでは日本人はまだ珍しい存在だったようで、とく子さんは人気者になった。人気テレビ番組にも出演するようになり、街に出れば握手を求められた。26歳の時にはチャンピオン戦が組まれ、とく子さんは、初代女子キックボクシング無差別級のチャンピオンとなる。その後、とく子さんに続けと、女子キックボクシングの選手もどんどん増えていった。日本では、テレビ東京で「女子キックボクシングの番組」が組まれるようになり、とく子さんは100回以上試合を行った。しかし、テレビ番組の人気が徐々に低迷、ギャラもどんどん下がっていった。とく子さんはキックボクシングを辞めることを決めた。

30歳

お金を稼げる事をやろうと思い、バイク好きだったこともあって車の整備工になった。しかし仕事も厳しくなかなか稼げない。36歳の時、街を歩いていると「アームレスリング大会開催!優勝者は、シルベスター・スタローン主演の映画『オーバーザトップ』に出演できます!さらに『ラスベガス旅行プレゼント』」というポスターを見かけた。(※映画のイベント兼アームレスリングの大会みたいなものだったそう。)「これだ!」と思ったとく子さんは、すぐにアームレスリング協会へ連絡。練習をしているチームを教えてもらい、大会での優勝を目指して練習に打ち込むが、試合には勝てなかった。そんな中またまた「これから女子の協会を作ろうと思う。参加しないか?」と協会から相談される。・・・

アームレスリングに真剣に打ち込むと、大会で好成績を残しまくる。

・1988年 38歳:第1回 日本女子アームレスリング準優勝

・1989年 39歳:第2回 日本女子アームレスリング準優勝

・1990年 40歳:第3回 日本女子アームレスリング 優勝

・1991年 41歳:第4回 女子アームレスリング 3位
・1992年 42歳:世界大会 モスクワ遠征

・1993年 43歳:世界大会 スウェーデン 遠征

・1994年 44歳:第7回日本女子アームレスリング 体重別 優勝

・1995年 45歳:第8回 日本女子アームレスリング 体重別 優勝

・第29回 世界アームレスリング選手権大会  ウルトラマスターズ女子 +60kg 左右 優勝

・第30回 世界アームレスリング選手権大会 グランドマスターズ>女子-70kg 左右 優勝

  • その後も、いろんな大会に出場している。

1996年、45歳の時。週刊誌で「女性相撲が正式にスポーツ競技になる」という記事をたまたま見つけた。「私が本当にやりたかったのは相撲だった。でももう45歳、やれるのだろうか?」とく子さんは、「やらないで後悔するのは嫌だ、やってみてダメだったらその時にまた考えよう」というようなタイプ。アームレスリングで鍛えていたこともあり、「まだまだ体力的にやれるだろう。上半身の力は十分にある。下半身を鍛えれば何とかなるのでは」と思ったそう。そして「初の女性競技は私がやらなきゃ!相撲やろう!」と、今度は相撲に挑戦することに。

2000年、49歳で国士舘大学に入学し相撲部に入る。女子が8人。すでに入学している先輩2名。剣道部、空手部など、様々な部活から集めた女子10名で、男子相撲部と一緒に練習をしていた。日々、練習を重ね 2000年から2005年まで大会に出場。55歳の時、18歳130キロの相手を倒し、全国3位となる。

 

 

◆60歳で芸人と結婚。旦那の相方が見つからないのでコンビを組むことに!!◆

 

2011年、芸人をやっている“しんいちさん”(35歳)と知り合う。ライブを見に行き応援をしていたら、ライブでいきなりプロポーズされる「まさか24歳差だし。。。」と最初は断っていたが、その3年後に結婚。しばらくすると、しんいちさんから「相方がいなくなった。どうしよう」と相談される。相方を探していたがなかなか見つからない。とく子さんはしんいちさんの相方になることにした。またまた新たな挑戦をするという意味で、コンビ名は『チャンレンジャー』。とく子さんはツッコミ担当。

 

芸人として浅草や上野の劇場で舞台に立ちながら、現在もアームレスリングを続けている

 

 

チャンレンジャーTV出演情報

BSフジ クイズ脳ベルShow